チェコビール巡り

チェコビールを中心とした旅行記と雑感です

ビールを飲みながらプロレスについて考えたみた

 コロナが急速に拡大して緊急事態宣言が発令された後、当然の如く外飲みができなくなったのだが、良くない(?)習慣として家での晩酌がスタートしたのだ。食事のお供になるビール一缶はそれまでもマストであったのだが、それに加え寝る前に「お酒に向き合う時間」ができてしまったのだ。

 

 最初は外での一人飲みの時のように考え事をしながら束の間の一人の時間を楽しんでいたのが、途中からパソコンでYou Tube を見るようになり…。それまでもYou Tubeで音楽を聴くことは時折あったのだが、コロナ禍でいろいろ考えているとなぜか昔のことを思い出したりして。そう言えば、小さいころ聞いたもしくはメロディーを口ずさんでいたあの音楽はなんだったかなあ、大好きだったプロレスのあの試合を見てみたいなあと。メロディーのうろ覚えでネット検索してYou Tubeで辿り着いて感動したのはスターダストレビューの「今夜だけきっと」。あと、和田アキ子の「だってしょうがないじゃない」もそうだね。えっ、和田アキ子だったの?って。1976年生まれの私でも和田アキ子に歌手のイメージなかったもんなあ。

 そういう感じでずっと頭に引っかかっていたのがプロレスの試合。大ファンであったジャイアント馬場がハーリーレイスとの試合でロープ際で河津掛け落としをしようとしたところ、ロープをつかまれて一人頭を打って、レイスがそのままトップロープに上がろうとして…。この流れは正確に覚えていて、時折思い出すの。実際に試合を見たのか、来週の予告みたいなので見たのかさえ定かではない。でも、レイスがトップロープに上がっていこうとしたということは…。

 

 私の記憶とプロレスはほぼ同時期だと考えている。幼稚園の時に「ゴング」ともう一冊のプロレス雑誌があって、友達の家で見たり(おそらくその家のお父さんのものだと思う)、幼稚園から始めた楽器の習い事の帰りに母を待つ間、近くの本屋で雑誌を立ち読みしていたことをしっかり覚えている。はたまた、盲腸になって入院した時にお見舞いに先生が持ってきたのがプロレス雑誌であったりもしたのだ。正確に何歳というのは覚えていないが、これだけでもプロレスファンとしては”エリート”であったと自負していいのではないか。ミズーリ州セントルイスジョージア州アトランタテキサス州はダラス、ヒューストン、サンアントニオフロリダ州はセントピーターズバーグ、テネシー州はメンフィスで、ソルトレイクシティなんてオリンピック前に知っている日本人はほとんどいなかったんじゃないかな。小学生で当たり前のように知っていたプロレスから広がる世界。「プロレスは八百長だ」とか、「なんでロープに振られて返ってくるのか」といったよくあるプロレスに対する見方や疑問など私にとっては愚問に過ぎなかったのである。ある意味、生まれた時からプロレスをそのまま受け止めていのだから。フォークを人の体に突き刺したり、手から火を出して相手に投げつけたり、流血しながら相手にむかっていったり、まだ人生が始まったばかりの人間がそんなものを見てしまっては、それを超えるものなど他にあろうことかと。まあ、同時並行で「ハイジ」や「ミツバチハッチ」「母を訪ねて3000里」等も同じように感情移入して見ていたのんだけどね…

 偉そうなことをつらつらと書いたのだが、私のプロレス人生は意外と短く、経験値もそれほど高くない。プロレス生観戦は小さいころに家の近くのスーパーの駐車場に来た一度と鶴田超世代軍以降に武道館や後楽園ホール足を運んだ数回。プロレスラーに実際に触れたのはその駐車場大会でラジャ・ライオンとした握手のみである(ある意味プロレスマニアからは羨ましがられるかな)。あっ、グアムで偶然出くわした蝶野とは握手したんだっけかな?その後一時期プロレスから離れるのだが、単純に小学生途中から習い事やスポーツその他諸々視界と行動範囲が広がったことに加え、プロレス番組が子供が起きていられない時間帯に移行したことが原因である。中学途中になって夜更かしができるようになってプロレスへの興味が復活したのだが、結局、ジャンボ鶴田が戦線を離脱したことで再び熱が冷め、極めつけはジャイアント馬場の死であろう。これを機に全くプロレスに興味が無くなってしまった。ジャンボ鶴田が亡くなった後も超世代軍が激しい試合をしていて素晴らしかったのだが、何かプロレスが”軽く”なったような気がしてしまったのだ。その後社会人になって2度ほど人に連れられてプロレス観戦をしたのだが、遠い目で眺めた記憶しかない。そこには小さい頃に私を惹きつけた何かがまるで欠落していた。いや、私の感性が欠落していたのかもしれない。ミスター高橋の暴露本もあったが、読もうという興味さえ失われていたのである。

 

 そんな中、「Gスピリッツ」なる本の存在をいつからか知って読むようになり、自分が大好きだったころのプロレス欲を満たそうとするようになった。最近ではYou Tubeで選手その他いろいろな語り手が出てきたこともあり、「昭和プロレス」の大枠はある程度掴めるようになった。事実は一つであり、真実は人それぞれ。どこかで聞いた格言めいたものであるがまさにその通りで、だからこそ未だにあーだこーだ言って楽しめるのであろう。

 総合格闘技がブームになろうが、プロレスはエンターテイメントだとか言われながらも、昔自分が見たプロレスは今You Tubeで見てもやっぱり面白い。そう言えば、時期シリーズの来日外国人選手でお馴染みの「カクトウギのテーマ」が坂本龍一作だったなんて、本当に最近知ったよ。もちろん、そんな曲名だったってことも。ハーリーレイスがギャラクシーエクスプレスに乗ってNWA世界王座のベルトを腰に巻いて不機嫌そうに入場してくる姿、それだけでもうお腹一杯になれるのだ。私が見てた時のチャンピオンはリックフレアーだったので、実際にレイスのNWAタイトル戦はリアルでは見たことがないはずなんだけどね。でも、レイスとフレアーでは格が違うんだよね。レイスは「抜かずのナイフ」を持っているの。いざとなったら‥という怖さを醸し出していてね。フレアーにはどうもそれが感じられなくて好きじゃなかったなあ。フレアーの一番好きな試合は北朝鮮の猪木戦かな。あれは良かった。お互いに。そうそう、You Yubeを見て改めて感心したのはアブドーラ・ザ・ブッチャーだね。日本はもちろん、アメリカ各地、カナダ、プエルトリコ、どこのテリトリーでも戦い方を変えず、高いクオリティの試合をしていたの。ブッチャーの評価変わったなあ。シカゴのアンフィシアターでの馬場との試合なんて、プロレスの教科書みたいなもの。メインがバーン・ガニアとニックボックウィンクルのAWA世界戦で、馬場VSブッチャーなんて当地では何のストーリーもなかったはずなのに、大流血試合で最後は結構な盛り上がりを見せていたしね。馬場もブッチャーが相手だと動きがいいし、ブッチャーも馬場に対してガンガン行くからスイングするんだよね。ブッチャーのランニング・エルボードロップが一試合であんなにたくさん出た試合なんて他にないでしょ。馬場もよく受けたよなあ。実際、まともにくらいすぎて幻のスリーカウントがあったけど…。

 

 そんなわけで馬場が河津掛け落としを失敗し、結局レイスの凄い角度のダイビングヘッドバッドを食らってPWF王座から転落した試合は1982年の帯広でのことだが、You Tubeで発見した時は感動したなあ。一度さわりを見ただけで40年近く頭に残っていたんだから。では、私が最も好きな試合はどれか。それは1984年の蔵前国技館におけるジャイアント・馬場VSスタン・ハンセン。馬場がジャイアントスモールパッケージホールド(?)でハンセンからまさかのピンフォール勝ちをしてPWFを奪回した試合。何度見ても感動する。あの試合にはプロレスのすべてが詰まっているんじゃないかな。馬場VSハンセンはどれもいい試合だったけど、その中でもあの試合は特別。私が全日好き、とりわけ馬場好きってことを割り引いたとしても。

 プロレス好きというと、全日派か新日派かなんていうのもあったみたいだけど、私の頃はもうそんなのはなくて、少なくとも私の小学校では生徒の一部に私のようなファンが学年に何人かいたくらいだね。初代タイガーマスクが活躍していた時期(VS小林邦昭の頃)だけど、小さい子みんながファンていうような時代ではなかったなあ。「プロレスかあ」ってな空気はもう当時からあったし。ちなみに、どうも新日がだめだったのは、何かアスリートのように動いて、最後はクルクルクルってあっさり終わってしまうような印象があったから。綺麗過ぎるというか。全日は外人も多かったし、言い方は悪いが何か胡散臭くて、非日常的で、それでいて大らかな感じが良かったのかなあ。そして、この感性が私の根本であるのだろうと。